『つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの 相田みつを』
相田みつをは、皆さんご存じの詩人です。
今日は、相田みつおさんの、息子さんである相田一人さんについて、ご紹介しようと思います。
プロフィール
- 本名 相田一人
- 生年月日 1995年9月2日
- 出身地 栃木県足利市。
- 職業 相田みつお 美術館館長
父親である、相田みつおさんは長男に「気骨のある人に成長するように。何事も一人で「やっていけるように、独り立ちできるように」と願いを込めて「一人」となずけたそうです。
一人さんは、高校まで地元にいき、大学は東京に進学しました、卒業後は、出版会社で編集の仕事をしていました。
相田みつをさんがお亡くなりになった後、「相田みつを美術館」を建てて館長になりました。
お父様の死後、作品の編集や、遺作展もひらいていました。
父、相田みつをのエピソード
このお父さんが芸術家にはありがちな事ですが、かなりのくせものだったようです。
売れなくとも、副業はしない
相田みつをさんは、国語の教員免許をもっていましたが、筆1本で生きることを喜び、副業はしなかったんだそうです。
字は達筆で、自分で書いた本を売ったり、展覧会の収入のみで生活したそうです。
いうまでもなく、生活は苦しかったのですが、書道の腕前を見込んで、書道教室ではどうだと、周りの人からいわれても、一切他の仕事はしなかったそうです。
家族は犠牲になっていたとは思っていない。
書物がそんなに売れるわけもなく。
生活は苦しかったと思います。しかし副業をすると書がおろそかになる。とおもっていたので
「一番大事なものに、一番大事な命をかける」という精神のもと、独り30畳もあるアトリエで何枚も何枚も書いていて書体をひねりだしたそうです。
60歳のころ、世に知れわたるきっかけとなった「にんげんだもの」がでたのですが、
それまでは、相田家は4人家族。なかなか大変だったとおもいます。
みつを自身は、自分が芸術に打ち込んでることで、家族は幸せだという考えだったといわれてます。
いかにも、昭和初期の芸術家の家庭という感じですね。
1人さんには、妹さんがいるそうですが、お二人とも。ぐれなくてよかったです。
妻は
妻は「平賀千江」さんと言います。
実家は大きな商家だそうで、しかも末娘。
お二人は、歌会で知り合ったそうです。
周囲は、相田みつをさんが収入がなかったことを理由に反対したそうです。
それはだれでも反対しますよね。わざわざ苦労しに嫁にいかせるようなものですものね。
もしかしたら、半分勘当のような形でお嫁にいかれたのかもしれません。
画商をされている菅原澄さんのお話しによると。
相田みつをさんは、
「人間臭く、わがままで、嫌いな相手とすぐけんかをしてしまったり、女性にも,たいそうもてていたらしい」ということでした。
お金も大変ですが、女性問題となると、ますます奥様は大変ですね。
お父様の詩への情熱
自然は、人間が頑張っても作りだせないもので、この地球にあるすべてのものを、つかわせてもらっていると、感謝の気持ちをもっていたようです。
詩の中に「お陰さん」おいう言葉が出てきますね。
また植物の在りよう(種から芽をだして育つさま)をみて、人間の人生も、すぐには結果はでないし、あきらめずに、つづけていく姿勢を学んでいたようです。
植物は根がなければ見えない。そしてその見えない根がないとそだたない。ということを人間にも当てはめて、「目に見えないもの」を深く理解しようとおもわれたそうです。
人間とは、本来自然の中でいきることが基礎であり、自然と対話していくべきものだと語っています
現代の利己的な考え方や、結果のみしかみない社会に反発していたそうです。
人間の命を、自然と融合させていくことの大切さを詩に込めてきました。
面白くいえば、家族は振り回されていましたが、実際お父さんの事を理解できた今は、美術館をひらいて館長をされているほどの息子さん。
今では、笑って話せるエピソードになっていると思います。
しゅのんの総評
家族には迷惑をかけた相田みつおさんですが、美空ひばりさんが闘病中に、相田さんの詩に助けられたことがきっかけで、ひろく世に知られていったそうです。
振り回されながらも、大きい紙に何度も書いては捨てていくみつおさんの様子をみていたご家族は、余りの気迫に尊敬の念はあったと思います。
そして相田みつをさんは、やさしいお父様ではなかったかと思います。
番組をみるのが楽しみですね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。